昭和五十四年九月十一日 朝の御理解
御理解第三十七節
「生きておる間は修業中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ」
これは、この世が苦の世だ苦の世界だ、と言うようなものとは全然違います。それは学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい、というのは限りない勉強に取り組む、という事なんです。これでよいという事はない、限りがないね。そこんところを、教祖は一生が修行じゃと仰せられてある。内容が、だから学者が年をとっても本を読むという事は、学問の世界がいよいよ広がっていく、それが学徳とまで高められてゆく、そういう喜びがある筈である信心も同じこと、ね。
もうこの世は苦の世だから、苦の世界だからと、もう苦の中に、苦の世界にしてしもうてはつまらん。もう何処までも自分が高められてゆく、何処までも自分が豊かな広い心になっていく、限りなく、あ-これが御神徳というものであろうか、と感じられるようなものが自分の心に頂け感じられる、それが楽しみなんである、それが有り難いのである、という意味だと思います。もうこの世は一生が修行、という事は仰しゃってはいないね、いわゆる学者が、いうならば眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい、と言っておられる。
昨日、宮崎の佐田電器商をなさっておられるが、電器器具を電話がかかってきた、今日カラーテレビをある方に一台月賦で売らして頂く事に約束した、処が後で聞かせて頂いて、分かった事なんですけれども、その人は丁度十年前にその誘拐事件を起こした人だった。しかし、私はそれを聞かせて頂いて面白いなあと思った。わざわざ信心をさせて頂いておられる佐田さん所でその、そういうお客さんを神様が差し向けなさる、という事はこりゃ本当は信心頂いておらなければ、そういう人には商いはしょうごとない、勿論現金なら誰でもしますけどね、月賦ですから、だからそりゃおかげ頂いたね、と私が申しましたら、そのどういう事だろうかと、ま、思いなさったと思うのですけれども、神様によろしくお取次させて頂くから、約束した通りにおかげを頂いたらよかろうと申した事でした。
というのは、その事を神様にお取次させて頂きましたら、東北辺りの雪国で履きますワラで作った、雪の日に履く長靴みたいなのがありましょ、あれを脱いで雪でね、雪で足をこう洗っておるところを頂いたんです。そりゃ成る程そういうよくない事件を起こした人ですから、決してよか人じゃなかったと思うですね。けれどもやはり、後悔するだけではない、も世間の目の冷たいその、いうならば後指をさされるような十年間であっただろうね、いうならば冷たい思いをした事であろう、その冷たい思い、その冷たい……ハア、こんな事はもう金輪際してはならんというように、心にも誓ったでしょうし同時に、いうなら、足を洗って居るという事なんですね。
例えば何というでしょうかね、よた者の世界というですか、遊び人の世界がまともな生活に入る事を足を洗うというでしょうが、だから、も、その人はねそれこそ、あの諺にもありますようにね、罪を憎んでもその人を憎まず、というようなふうに申しますでしょ、もう成る程、自分はそういう世間を騒がすような良く無い事をしたんだけれども、警察の法に触れていうならば、それを償うところの刑を受けられたに違いはないけれどもね、その間にその人が思うた事は、こういう世間騒がせな事はしてはならないぞ、と思うただろう、そしていうならば、その娑婆に出て来た、出て来たら皆の目は非常に冷たかった。
あれは十年前にあげな事せらしゃった、あの人は、あの誘拐せらしゃったあの人だ、というようにそれこそ、聞こえてはこんけども何とはなしに、そういう冷たい目で見られ続けてきた人だろう、だから、いうなら冷たい雪で足を洗っておる、もうまともになっておる、だから、あの人は十年前にそういう罪を犯した人という見方ではなしにね、本当に十年間つらい思いをした事であろう、それで心を改めた、それで足を洗うておるならばもう普通の人として、いうならば、神様の氏子として見るべきである、という事なんですね。そこには、私共の寛大な心というのがいるんです、ね。寛大の寛という字を書いてみますと、ウ冠にそしてクサ冠があって、見ると書いてある。
これは、伊万里の竹内市長が色紙を持って見えて、ここに一筆書いてくれと言われた時に、神様にお願いをして頂いた御理解だったと記憶してます。だから大きく中に寛という字を書いてね、ウ冠にそしてクサ冠そして見ると、ウ冠という事は宇宙の宇である、クサ冠というのは自然という事であるね、自然という事はそのまま神様であり、その働きは神様の働きという事である、全て起きて来る、しかも、自分の前に起きてくる問題はね、もう良い事、悪い事、甘い事苦い事、一切すべてが、神様があなたに求め給う修行である、と見るべきだと言うのですね。ならそれをです、どういう忌まわしい事であっても、損になる事であっても、ハア-これが、神様が私に求め給う修行だ、ともし頂いたらどういう事になりましょうか、心が寛大の寛の字になりゃしませんでしょうか、心が広うなるね、心が限りなく広うなっていく、間違いなく私共の上に起きて来る問題はそうなんですね、天地自然があなたに求め給うのです。
私一人が、貧乏クジを引いておるように思うて、嘆く人がありますけれども、それをそういう寛大な広い心で受けると、その貧乏クジと思うておったクジが宝クジであった事に気付きます。いうならば神愛であった事に気付きます。言うならば神願……私に神様が願いをかけておられるからこそ、その神願成就の為の神の働きと見るところに、御礼を申し上げずにはおられない、その心は飽くまでも寛大、寛である。市長室の自分の大きなテーブルの前の壁に、私が一辺あちらへお邪魔した時にはそれが掛けてあった、まあ市長でもなさると、それこそもう、どんな問題でも持ってくるわけですね、それを、これはいかんの、良いのと言うたらもうきりがない、もう一切市長さんの心一つの中に、こう受けて治めていく、と言うような、ま、修行をなさる事を、神様は求め給うたのでしょう。
それから何年かして、また色紙を書いて差し上げた、それには、「和楽」と書いてさしあげた。和らぐ楽という事です、今はそれが掛かっておるという事です。寛大な心の内容というものは、和楽でなからなければならない、どんな問題であっても自分の心が和らいでおる、も、自分の心が和らいでおる楽こそ本当の意味においての極楽だと私は思うのです、気にならない、心配にならない、不安焦燥はない、一切を神様の働きとして頂いていく稽古が、何年間一生懸命出来る、そこには答えが出て来なければならないのは、この和の心であり、それこそ楽な心、神様を信じ切った生活というものは、こんなにも楽なものであろうか、と思うような世界ね、その楽な世界を、ま、極楽と言うのでしょうけれども、その極楽の世界からもう一つ向こうに合楽の世界があるのです。
その合楽の世界というのは、私だけが楽ではない、それこそ人の事が願えれる、人の事が祈れれる、いうならば神様の願いに答えられるという、いうならば世界です。そこに神も喜び氏子も喜び、取次いで下さる金光大神もまた喜び、というような世界が開けてくる。だから、そういう素晴らしい世界を目指すのでございますからね、これは一生修行致しましても、なかなかそこに至達する、生神金光大神の境地といったようなものは、まあ、私共のような凡人では開けそうにもございませんけれども、心が、その魂があの世までも、いうなら持って行けるものであり、あの世まででもその、間違いのない焦点に向かって進みに進み、開けに開けていくおかげの世界が約束されるのです、ね。
だから、信心の根本のところは、今日の御理解じゃないけれども、成る程一生が修行じゃと、只、なら一生が苦労だと言うのではなくて、いうなら自分の学徳が身についていく事を楽しみに、眼鏡をかけてでも本を読むように、私共が信心させて頂く者がです、ね、いよいよ広い美わしい心、豊かな心が、もう限りなく、此処までで良い、という事はない、ね。そういう世界を目指し、そういう世界に住まわせて頂けよという、私は、これはみ教えだと思うんですね。 もう何年間、それこそ善導寺の原さんじゃないけれども、息子の死ぬか生きるか、と言ったような病気で、夫婦のものが一生懸命信心させて頂いて、本当にこの人がおかげさえ頂きゃ、こげな朝早うから参らんでんよかばってん、と思う時代もあった、おかげで息子がおかげを頂いた。そして次々とやっぱ願わんならん事は限りがない、そうしておるうちにね、もう本当にこの人が良くなりさえすればよう、こげな朝から早起きしたり、このしるしいのに寒い時は寒い、暑い時は暑いで、こげな苦労はせんでんよかばってん、と思うておったのがその、いうならば苦労というか修行が楽しいものに、有り難いものになって来た証拠に三十年間続いとる今日まで、ね、いうならば、いよいよ和楽の世界を目指して、いうなら、いよいよ寛大にならして頂けれる、いうなら自分がもう楽しいのですね、自分の心が限りなく美しうなる、広うなる。しかも限りなく、和らいでいく自分という者をね、見極めれば見極めるほど本当の者ではない、我似せ者の自覚も出来てくる、そこでね、もう昨日の似せ者は今日の似せ者と同じものであってはならない、少しでも本当のものへ向かって精進する、という事である。
いよいよ、自分自身という者が掘り下げられてくる、そして自分の信心内容の貧しさに気が付かせてもらう、それこそあの、ガマの油売りじゃないですけどね、ガマを四角四面のガラスの中に入れると、自分の見苦しい姿が四面のガラスに写る、そこで、そのガマがです、自分のその見苦しい姿にもう、それこそ肝を冷やすというか、それこそ油汗を出す、それで練り上げたのがあのガマの、これはガマの油の宣伝の文句でしょうけれども、私共が四角四面と、兎に角自分の周囲の全てが自分の鏡だと見るべきなのです。家の息子がどうのというのは、も、そこに息子がそのまま鏡なのです。どうして、こんなにいっまってん貧乏せなんだろうかと、それは、あなたの鏡なのです。貧乏せんならん元がある、息子がいう事を聞かん元がある。そこでなら、自分自身の貧しさが分からして貰うて、それこそ、油汗を流すような思いで、これではならん、とまた日、一日一日をです、改まる、と言うことに努めさせて貰う、ね。
昨日、月次祭のお説教の時にお話しましたように、宮崎の後藤啓子さん、という熱心な信心をする信心者がおります。丁度昨日がまる二年になる、その御礼の電話が昨日かかって来た。もう先生、丁度今日でまる二年になります、二年前、二年後の今日の自分というものを思うてみる時に、も本当にまあ信心というのは有り難いものだ、自分の有り難い世界が広がっていく事が有り難い、初めて合楽におかげを頂いた時に、親先生が、信心とは日々の改まりが第一と仰しゃった、そして、その改まるという事に、こんこんと御理解を下さった事を、私は二年間頂き思い続けて来た。それ以来、私の手首にはゴムバンドがはめてある、そして、こうゴムバンドに触れるたびに改まり改まり、と思うて二年間過ごして来らせて頂いた頃に、自分という者も楽になっただけではなくてです、人が、後藤さんあんた此頃変わったねえ、と言うてくれるようになりました。第一主人がお前が合楽に行くようになって変わった、と言うて喜んでくれます、というお届けがございました。
どうでしょう皆さん、ハアも、信心な十年も、二十年もしとるけれども、ひとっつも変わり映えのしない人があるね、昨日は育てる、育つ、という事について御理解を頂いた。だから、ただ育つと言うだけならね、いうならば、育ち盛りの子供に一年会わなかったら、もう見知らん事なっとるでしょうが、三、四日前に沖縄からもう真っ青なバナナのお供えを頂いた。ハア-これは月次祭に、この真っ青なバナナをお供えしたら珍しいなあと思いよった、で昨日、神饌室に入って見たら、その青いバナナがない、ありゃどうしたか、て言うたら、あれは御霊神様にお供えしました、とこう言う、見てみたところがもう見事に黄色く、今が食べ頃という位に、いうならば自然にそういうふうに熟してきてるんです。
自然の働きの中に、そういう働きがありますけれども只、なら自然に大きくなった太っただけではいかんでしょう、ね、お道の信心をさせて頂くならば、話を聞いて助かる道と仰せられる、いうなら教育である、教え育てられているのである、だから、なら合楽に御縁を頂いて以来、成り行きをいよいよ尊ばして頂くようになった自分、もういよいよ土の心に極まった、とこの事に修行しぬかせて頂いて、なら日々の改まりが第一だと頂いて、その事に精進させて頂いて、二年後にはもう人から変わったと言われ、主人から喜ばれる自分になっておると言うようにです、教育という事はそういう事だと私は思うです。と言うようなお話を昨日は聞いて頂いたんですけれども、私共お話を頂いて聞くだけじゃつまらん、我が心からも練り出させてもろうて、それが自分の身になり、いうなら血肉になって行く事が楽しみである、それが信心の徳ともなっていくなら、もういよいよ有り難いのである、ね、一生が修行でしょうが、もうこれで良いという事はないのです、今日の私は鏡を見れば見る程、ハア-、汚れておる自分だな、本当に似せ者我だという事が分かるんです。
だから、それを私共がですね、よりもっと、ましな本当なものへね、もっと美しい汚れのない私にです、変わらせて頂こうとする精進そのものをね、一生が修行と仰しゃったのです。その一生が修行だ、という修行にお互い本気で取り組ませて頂いてね、限りないおかげに会いたいね、心は、いよいよ和楽の世界に住んでゆく、ね、こういう例えば問題、それを自分の心の中に有り難く受けていけれる自分というものが、いよいよ有り難うなってくる、と言う信心を頂きたい。
皆さんの心の中にひとつ、寛大の寛の字を何時も頂いておかれたらいいのです。ウ冠とは宇宙、大地の親神様が自然の働きの中にね、この修行に取り組めよ、これを有り難く受けてくれよと、これは神愛でと、例えば言うてござると思うて、それを合掌して受ける気になると、心はいよいよ寛大になってまいります。豊かに大きゅうなってまいります。大きゅうなっていくだけ絶対間違いのないおかげの世界が広がっていくのです。
私は、昨日の御理解を頂いてから、その後にいろいろ思わせて頂いた。ハア-, 本当に信者が育つとか育たないとかいう事は、まず教会長自身が,私自身が育たなければいけない。私がより本当の私になる以外にない、もう人が助かる事さえ出来れば、というのは私の思いなんですけれども、人がいよいよ助かる事の為には、いよいよ私が助からなければならない、私が育たなければ信者が育たないと、まあ思わせて頂いたんですけれどもね、もう人じゃないです、自分が育つ以外ないですね、そこに神様が育たなければならない者は育てて下さる、教え育ててくださる。
それこそ、学者が年をとっても眼鏡をかけてからでも本を読む、勉強をするようにね、私共がね、いよいよ自分から求めてでも、その修行に取り組ませてもろうて、自分の心の高まっていく、豊かになっていく、寛大になっていく事を楽しみに信心させて頂く、もうそれがね、心が広がると言うだけじゃないんです、も広なった心には広い、いうならおかげが必ず伴うから、いよいよもって有り難いのです。これをなら、あの世にまで持っていけれると思うから、いうならば、信心のギリギリであるところの死生観というかね、いうならば、死の恐怖と言った様なものもなくなって、有り難いものだ、という事になってくる程しの心が高められてくる訳ですね。
どうぞ、こげな修行は何時までせやんじゃろか、勿論こげな修行ば一生しちゃ出けんです、今、例えば病気をしてる人が何時まってん、一生病気であったんじゃつまらんです。今貧乏しとる人が、貧乏の修行が一生貧乏の修行であっちゃつまらんですね、その修行の対照というものが、段々高度なものに変わってくる、だから楽しいのです、だから有り難いのです、ね。昨日の御理解じゃ無いけれども、それこそ天地のリズムを聞きながら、信心をいよいよ高めていく、進めていく、深めていく、広めていく、ね、そういうおかげに取り組ませて頂きたい、そういう信心に取り組ませて頂きたい。
どうぞ。